情熱のイタリア
ミレニアム
時は1998年2月、ミレニアム(千年紀)前の日曜の朝、僕はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂前に立っていた。
直前に大学院の研究発表を終え、卒業式までの1ヶ月半の間に、まずは冬のイタリアに来ていたのだ。
広場に集まった人々に、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、大聖堂前のベランダから手を振って、日曜恒例の祝福をあげている。
僕はそれを眺めながら、2ミレニアム前の情景に想いを馳せる。
2,000年前に今のイスラエルで生まれたイエスが、エルサレムで数々の奇跡を起こし、20世紀経った今なおここにいる人々に影響を与えている。イエス亡き後、その弟子ペテロは、エルサレムからローマまで来て布教活動を続け、この地で亡くなりサン・ピエトロ(聖ペトロ)大聖堂の下に遺骨が眠ると言う。
そして1,000年前、その生誕の地を奪い返すために、ローマやコンスタンティノープル(今のイスタンブール)から十字軍の兵士たちがエルサレムを目指した。
そうだ、エルサレム いこう
特に信じている事も、宗教への造詣も深くないが、きっとここローマから陸路でエルサレムまで行ってみたら、何かが分かるかもしれない。その思いだけで十字軍の道をなぞってエルサレムを目指す。
そのためには、まずナポリ行きの列車のチケットを買わなければいけない。
ナポリを見てから死ね、よく言われるこの言葉を、確かめにいこう!
ナポリを見て、それで終わってしまう訳にはいかない
ナポリでは、スリや睡眠薬強盗、果てはマフィアに気をつけろ、と言われていた。
そして、ここナポリで起きた最も厄介な事は、イタリア恒例の鉄道のストライキだった。
ナポリ・セントラーレ駅前では、鉄道の職員たちがシュプレヒコールをあげている。それを横目に見ながら、僕は駅前のバルで、呑気にナポリ名物のピッツァ・マリナーラを頬張っていた。
だがそんなストも一日、二日と止む気配がない。ナポリから南の鉄道路線全てが止まっていた。
ナポリは確かに海岸沿いの風光明媚な街だが、季節は冬、なんとなく侘しい感じもあり、これを見て死ね、と言うわけにはいかない。
本当は南イタリアを巡ってシシリア島にも足を伸ばすつもりだったのだが、ナポリから動けない。
なにか忘れてないか
あれ、よく考えると僕には予定があったんじゃなかったっけ。
そう、高校からの友達ナオトと、二人でエルサレムを目指そう、と言ってあったのだ。1週間遅れで来るナオトとは、海の向こう、ギリシャ・アテネのユースホステルで落ち合う約束だった。
約束の日は、3日後。当時はスマホはおろか、電話事情も悪く、外国にいて連絡を取りあうなんて、考えられもしなかった。
このままストが延びてギリシャに到着できなければ、彼は僕がどんな状況なのかも知らないので、待ち切れなくて先に行ってしまうだろう。僕はこの旅に、なけ無しの10万円を握りしめてやって来ていて、帰りの航空券代もそれで賄わなければならない。もし足りなくなったら、ナオトと落ち合ってから借りればいいや、くらいの気持ちでいた。これはマズい。
こんな状況を打破する方法は、地球の歩き方には載っていない。そんな時は、地元の人に聞いてみるしかない。
だが、道ゆくイタリア人を捕まえてみるも、ほとんどの人は英語が通じず、込み入った話ができないのだった。
ポンペイの出会い
そこに学生風の女の子が立ち止まった。聞けばスイス人という事で、ナポリの芸術系の大学に留学しているという。英語が通じる、やった。
とにかく南の港町ブリンディシまで行きたい、と言うと、鉄道は止まっているが、バスならやっているかもしれない、とバスターミナルまで案内してくれた。そこでギリシャ行きの船が出るブリンディシまでのバスのチケットを買う事ができた。このブリンディシまでの道は、ローマから繋がる古のアッピア街道だ。
バスの出発は明日の朝、それまで時間があるならポンペイに一緒に行かない?とその子が誘ってくれた。
その子の友達と、他の日本人バックパッカーと総勢5人で、ポンペイ半日観光だ。
ポンペイは、今からちょうど1920年前(?)の西暦79年に近郊のヴェスビオ火山が大噴火し、大量の火山灰が降り注ぎ、たった一晩で当時1万人の市民が灰の下に埋もれてしまった遺跡の街だ。
ポンペイは今となっては綺麗な観光地という程で、当時の面影を忍ばせるものは博物館のこのような再現展示のみ。本当にこんな風に一瞬で灰に埋もれてしまったんだろうか。
彼女たちに案内してもらいながら、楽しくお喋りする。観光中も彼女たちは歩きながら、タバコをスパスパ吸っている。
「タバコ、いる?」とGitanesを勧められたが、「僕は吸わないんだ」と断った。「ふうん、タバコも吸わずに長生きして何が楽しいわけ?」と彼女は笑う。確かに、ケセラセラ、なるようになれと言うのも大事だね。あっ、それはスペイン語か。
バー・ロッソ
そしてポンペイからの帰り道、彼女達から「今夜クラブに行くんだけど、一緒に行かない?」と素敵なオファーしてくれる。
「Certamente!(もちろん!)」と即答。一度みんな家に帰ってから、再度海沿いのバーで夜10時に待ち合わせようと、Chao Chao(またね)と別れた。
そして夜になり、僕ら二人はウキウキしながらナポリの街に繰り出す。
待ち合わせ場所のバー・ロッソで彼女たちを待つ。
待つ、待つ、待つ。。。1時間経っても2時間経っても、彼女たちは、、、来なかった。
当時はSNSも何もなかったので、もちろん連絡先はない。
ただのやる気ない社交辞令だったのか、それとも単にすっぽかされたのか。。
ガンガンにユーロビートがかかるバー・ロッソの真っ赤な内装の店内で、僕ら男2人は、ヤケ酒するしかなかった。ナポリのレモンのお酒リモンチェッロが体にシミる。甘くて口当たりはいいが、アルコール度数が高いので、最後はヘロヘロになった。そして夜中のナポリの街をフラフラ帰る他なかった。。
旅立ちのブリンディシ
明朝、気を取り直して一人早起きし、バスで一路ブリンディシを目指す。ストで止まっている鉄道を尻目に、バスはすごい勢いでビュンビュン飛ばす。そして丸一日掛けてブリンディシに着く。
そこからギリシャの港町パトラへの国際船は、明日の午後の出発だ。
もう既にナオトとアテネで落ち合う日付けを過ぎている。ギリシャのパトラ港についたとしても、そこから先、オリンピアやマラトンの丘を越えて、アテネに着くまでにも時間がかかる。
果たしてどこかでナオトに会えるのか?不安と新しい国への期待が入り混じったまま、イタリアを離れる。
2. ギリシャ編: 喧騒のアテネ、神託のデルフォイ に続く >>
Ken YOSHIDA 𠮷田 顕一
世界50カ国以上を旅し、時々旅行記を書いています。それ以外にトライアスロン・レース、メイカー・フェア(モノ作り展示会)で世界中を回る。最近はコロナ禍のステイホームで、部屋で筋トレしながら旅するアイアン・トラベラーを標榜しています。