殺生石

野を横に 馬牽(うまひき)むけよ ほとゝぎす

(意味)広い那須野でほととぎすが一声啼いた。その声を聞くように姿を見るように、馬の頭をグーッとそちらへ向けてくれ。そして馬子よ、ともに聞こうじゃないか。

那須野は有名な「歌枕」の地で、その近くの黒羽に知人がいたのでした。
芭蕉と曾良は、ここで4月3日から16日まで、13日間滞在(那須には2日間)のんびり滞在していました。その間に、この那須野の近くの謡曲で有名な「殺生石」「遊行柳」を訪ねています。

九尾の狐(玉藻の前)伝説の残る殺生石と西行の遊行柳(ゆぎょうやなぎ)です。

奥の細道 「殺生石」

黒羽を出発して、殺生石に向かう。伝説にある玉藻前が九尾の狐としての正体を暴かれ、射殺されたあと石に変化したという、その石が殺生石だ。

黒羽で接待してくれた留守居役家老、浄法寺氏のはからいで、馬で送ってもらうこととなった。

すると馬の鼻緒を引く馬子の男が、「短冊をくれ」という。馬子にしては風流なこと求めるものだと感心して、

野を横に馬牽むけよほとゝぎす
(意味)広い那須野でほととぎすが一声啼いた。その声を聞くように姿を見るように、馬の頭をグーッとそちらへ向けてくれ。そして馬子よ、ともに聞こうじゃないか。

殺生石は、温泉の湧き出る山陰にあった。石の姿になっても九尾の狐であったころの毒気がまだ消えぬと見えて、蜂や蝶といった虫類が砂の色が見えなくなるほど重なりあって死んでいた。

また、西行法師が「道のべに清水ながるゝ柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」と詠んだ柳を訪ねた。

その柳は蘆野の里にあり、田のあぜ道に残っていた。ここの領主、戸部某という者が、「この柳をお見せしなければ」としばしば言ってくださっていたのを、どんな所にあるのかとずっと気になっていたが、今日まさにその柳の陰に立ち寄ったのだ。

田一枚植て立ち去る柳かな
(意味)西行法師ゆかりの遊行柳の下で座り込んで感慨にふけっていると、田植えをしているのが見える。(私は)田んぼ一面植えてしまうまでしみじみと眺めて立ち去るのだった

殺生石の前でBashoBot一句:

殺生石 削りし青雲に 岩盤の声

辺りは硫黄の匂いが立ちこめる 本当に見事にぱっかーんと岩が割れている 今はのどかな観光地だが、芭蕉の時代はもっとガスが立ち上っていたのだろうか
BashoBot3.5

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この地に伝わる「殺生石伝説」は、平安時代初めの鳥羽上皇の逸話です。
 
平安時代に、古代からインドや中国を荒らし回った妖狐「白面金毛九尾の狐」が、とうとう日本へやって来ました。そして、妖狐は、「玉藻の前」という絶世の美女に化身して、帝(鳥羽上皇)の寵愛を受けるようになったのです。
 
帝の命を奪い日本を意のままにしようとした「玉藻の前」は、陰陽師の阿部泰成によってその正体を見破られ、本来の姿(九尾の狐)になって、「那須野が原」へ逃げ込んだのでした。
 
朝廷は、すぐさま上野介広常と三浦介義純に命じ、8万もの軍隊を派遣して「九尾の狐」を退治させました。妖狐は射殺され、巨大な石となります。
 
そして、その怨念は毒気となって、それ以来、近づく人や鳥獣を殺し続けたのでした。
 
時はくだり、室町時代にこれを伝え聞いた名僧・源翁和尚が、この地を訪ねます。そして、術をかけた杖をさして一喝すると、巨石はパッカーンと3つに割れました。
 
3つに分かれた石の1つは会津へ、1つは備後へと飛んで行き、残った1つがこの地に残り「殺生石」として、今も語りつがれているのでした。
 
3つに割れて効力は薄まったかもしれませんが、「殺生石」の霊力はまだ残っています。
 
那須温泉神社の境内には、今も、妖狐の御魂を鎮めるため「九尾稲荷神社」が祀られているのだとか。

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